ニートの歩き方という本があるそうです。
読んだ訳ではないがそれについて書かれているブログがありました。

武田鉄矢主演の映画「降りて行く生き方」と同じベクトルだし
「もっともっと欲しい」から離れて
「必要なだけ頂く」という右脳コアキュイーンライフを
社会の新スタイルとして表現しています。

いい大学、いい会社、という昔の日本の「レール」があると
社会は安定するが、人間がその型に押し込められる感というのがどうしても拭えない。
数十年のうちに、何でも有りになった日本社会だが
社会に人間を合わせる、というスタイルから
人間に社会を合わせる、に変わらざるを得ない時期に来ていると思う。

だからUD16なんだけど、この哲学はこれから間違いなく必要となります。
http://text2211.com/ (写真が新しくなりました!)


以下
http://keizokuramoto.blogspot.jp/2012/08/pha_24.html から部分抜粋。

-------------------------------------------------------------------------------------------------

人間社会は、放っておくと「無理して自分を痛めつけているかどうかレース」みたいなのを真剣にやりこんでしまうことになりがちで、「本当に相手のためになるか」とか「本当に社会の幸せにつながるか」とかいう吟味はそっちのけにして、「俺はお前よりこんだけ自分を痛めつけてるから偉いんだぜ」っていう競い合いに収束してしまいやすいですよね。

だから、そういうのから適切に距離を置いて、「目先のことに汲々とするレース」みたいなのから「降りた」存在が、社会の中のどこかにいて、で、たまに「息抜き」を提供してくれるというのは、かなり

切実に必要

なことなんですよ。

で、仏教というのは、そもそもそういう発想でできている社会的装置だったと思うんですよね。まあ、「それだけのため」とは言えないかもしれないが「たくさんある機能のうちの重要な一個がそれだった」と言っていいと思う。

「世間の内側の人間」だけでお互いを監視し合って叩き合いをしていると、どんどん「誰もが息苦しいのにそれを辞めることができない」っていう方向の我慢大会みたいになっちゃうので。

その「外側にいる人間ですよ」ってなった人が、些細な世事に惑わされない分超然とした人格を涵養していて、で、たまに節目節目に「それっぽい話」をしてくれて、それで「みんなの息苦しさ」が緩和されるっていうか。

でも、現代の仏教は、あまりそういう「本質的役割」を果たしているとは言い難い部分があると思うので(彼らは彼らで別の価値を提供していると思うので、批判してるわけじゃないんですが)、そういう部分を代替する役割として、Phaさんみたいな人は凄い「意味あること」をしていると言っていいと思う。